明日から入院です。

明日から、骨折した腕に入れていたプレートを取る手術です。仕事が終わって、明日の5時に入院して、明後日、手術です。以前、プレートをボルトで留めたときの反対で、ボルトのネジを手で廻して、取るそうです。1時間で済むそうです。手術室へ行くまでは意識がありますが、点滴で麻酔を入れている間に、意識は無くなります。気づいたら、ベッドで寝ています。まあ簡単なもので終わればいいのですが、0.01でどうとか、詳しく説明されます。要するに、どんな完全な手術でも危険は必ずついてまわりますよということです。
 しかし、もしもは限りなく低いので、安心して行って来ようと思います。
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九州への帰省

大学時代を過ごした福岡に降り立つ。今の家内と出会った福岡市でした。1日目は、いつも電話をくれるA君と会い、福岡市内を歩きました。天神へ戻り、飲み屋で飲み、食べました。彼はフリーターを続けて長いですので奢りました。2日目は、14年間非常勤を続けた小倉の短大の学長に会いました。夜は軽めのお寿司と生ビールを奢ってもらいました。3日目は、柳川の友人と久々に出会い、いつも寄るT君の職場の隣の部屋で話をしました。それから柳川の友人とラーメン食いに行き、奢りました。わざわざ来てくれたからです。他にも会いたい方はたくさん居たが、大忙しの福岡でした。何より、義父が2年前に亡くなった家内の実家に泊めてもらいました。義母は今年80歳になるそうで、耳が遠くなっていました。洗濯もしてもらって、ただ、泊めてもらっただけみたいで、もう少し話せたら良かったですが。

 翌日は新栄町で兄と会い、車で鹿児島まで送ってもらいました。高速代のうちから3500円払いました。途中で、熊本ラーメンの大盛りを食べました。今回は、やはり1年半ほど前に亡くなった母親の墓参りが主でした。遠くに住んでいると、1周期にも帰れませんでしたから。まだ信じがたい遅ればせながらの帰鹿でした。親父も85歳になって、肉体の姿で会えるのはあと数年だろうと思い、来年も盆過ぎには帰ろうかと思っています。鹿児島では弟宅と父宅に泊まりました。

 そして、鹿児島空港から羽田空港まで来て、帰りました。

母親の死

 2月26日に母親が亡くなった。まだ信じられない。くも膜下出血ですぐ入院して手術。自発呼吸を取り戻したが、瞳孔が空いているのが心配と言われる。明け方4時過ぎに弟から電話がある。固定電話が鳴ったので、ただごとではないと思う。「かあちゃんが無事でありますように」と祈り続ける。弟に6時頃「かあちゃんは大丈夫な?」と、メールを打つ。返信がない。長い時間が経った気がした。眠れない。6時6分に弟から電話がある。6時2分に亡くなったらしい。病院の話では、一度心臓が止まって、マッサージをして呼吸をしているが、次に心臓が止まったら、蘇生法はしないと言われたそうだ。前日の手術で、35Kgの体で、8時間以上の手術がかかった。体が持たなかったのだと私は思う。手術をしなければ少しでも生きただろうか?
 弟家族には長かっただろう。11時に来てくれと言われてから1日中、待ち続けて、どうにか終わって、成功したのだが、翌朝、起こされ、みんなで出かけたらしい。
 私らもすぐ飛行機の予約を取って、息子と家内と3人で、まず東京までバスで行き、飛行機で鹿児島へ向かった。夕方5時過ぎに鹿児島へ着いた。鹿児島は雨だった。天まで泣いてくれていたのか?
 通夜の会場へ行き、まず母の死に顔を見た。まだ生きているような顔。でも頭に穴を開けたので、包帯に巻かれていた。痛々しかった。何度も見た。「かあちゃんが幸せでありますように」向こうへ行った母に、手を合わせるしかなかった。かあちゃんはまだもう少し生きると思っていた。あと1回電話で話をしておけばよかった。悔いはいくらでも出てくる。母ちゃんの天命が完うされますように、そう祈るしかなかった。その晩はいろんな方と話した。兄夫婦と娘も来ていた。田舎のいいところか、翌日の葬式にも200名以上の方々が来てくださった。僕の時はこんなに来ないだろうという自信がある。こんなに来てくださっただけでも母ちゃんは幸せだっただろう。

春休みだけど

 4月からの準備をしないといけない。その1つは授業の概要を書くことだ。これは必須である。忘れていた。あと、入学前課題を読んで、添削しないといけない。自宅ではできないので、職場へ来て、やらないとはかどらない。明日は、講演会があるので、今日は職場へ来ている。
 娘は卒論に時間を注ぎすぎて、就活と自動車免許をクリアーできなかった。しかし残りの3月でしなければいけないようである。母親は自動車免許で30万円も捨てるのはいけないと、圧力をかけた。ちょっと難しいなあと私は思っているのだが。

郷土の平泳ぎ世界新記録保持者のこと

 私は鹿児島県の志布志高校を卒業した。最近、母校から平泳ぎ世界新記録保持者が出たニュースを観て、興奮していた。それに関する記事を掲載する。

山口観弘(東洋大)は自身の記録に苦しんでいる。その記録とは、昨年9月の岐阜国体で打ち立てた、2分07秒01という男子200メートル平泳ぎの世界新記録である。日本人としては戦後初となる高校生(当時3年生)での快挙に、周囲の見る目はがらりと変わった。どこに行っても、どの大会に出ても世界記録保持者として紹介される。もちろん当初は「さらなる記録更新を」と意気込んでいた。しかし、自身や周りからの期待とは裏腹に記録は悪くなるばかり。昨年10月から故郷・鹿児島県の志布志市を離れ、平井伯昌コーチに師事しているが、練習環境は格段に良くなりながらも、結果がついてこなかった。

 あれから8カ月が経過した。5月24日から26日まで開催されたジャパンオープン。山口の結果は芳しいものではなかった。初日の100メートル平泳ぎでは7位、2日目の50メートルではB決勝にすら残れなかった。代表に選ばれている3日目の200メートルも決勝に進出できず(B決勝で1位)、「全然ダメです。いいところがない。アップでは悪いところが修正できているんですけど、本番になるとうまくいかない」と、山口の表情には苦悩が浮かんでいた。

 世界記録はそれが更新されない限り、いつまでもつきまとう。なにしろ世界一なのだ。選手の強さを一言で説明するのに最もシンプルな枕詞である。そのプレッシャーたるや想像を絶するものだろう。ましてや10代の記録保持者となればインパクトは絶大。山口は世界記録を出して以降、4月の日本選手権まで2分10秒を満足に切ることができなかった。周囲の騒々しさで自身を見失ったこともあったという。平井コーチも山口の状態を心配する。

「本来であれば、代表に入って、世界大会に出て、メダルを取って初めて世界記録に挑戦するものなんです。北島(康介/アクエリアス)の場合は、そうやって段階を踏んできた。しかし、山口の場合は違う。彼は代表に入る前に世界記録を出してしまった。選手としての成長よりも記録だけが先をいっている状態なんです」


「僕はおごっていたのかもしれない」
「最大の問題はメンタル」だと、平井コーチは考えている。世界記録を出したころは、メディアに対しても山口は自信満々の発言をしていた。しかし記録が伸びず、結果も出なくなるとその自信が揺らいでいった。平井コーチは11月から2月ごろにかけて、事あるごとに説教を繰り返していたという。「大きなことを言うたびに叱っていた。それで萎縮した面はあるかもしれない」と振り返る。ツイッターで「だるい」とつぶやいた山口をとがめたこともあった。

 ジャパンオープンの100メートルで惨敗したあと、平井コーチは山口に対して、厳しいことは言わずにあえて突き放した。「なぜこうなったか自分で考えてみろ」。もちろん見放したわけではない。技術的な問題であるならば、コーチの指導でいくらでも修正することができる。しかし、メンタルの問題となれば自身で解決する以外にない。そして自分で気づかない限り、先への道は開かれないのだ。

「気持ちが不安定なんです。今はレース前とレース後で言うことが違ったりする。志布志にいたころは、練習することに飢えていた。今は寮の同部屋に萩野(公介/東洋大)がいて、周りには五輪選手がたくさんいる。それでお腹いっぱいになっているのかもしれない」(平井コーチ)

 山口自身もメンタル面に問題があることを認めている。以前は、ほかの選手の良いところを吸収しようと映像を見ながら研究していた。それが自分のスタイルだと思っていた。しかし世界記録を出したことで、追われるものとしての意識が強くなり、ほかの選手の映像を見る回数が少なくなった。「いま思うと、僕はおごっていたのかもしれません。自分だけしか見てなくて、水泳に対する意識が低かったんだと思います」。ジャパンオープン後、山口は険しい顔でそう語った。
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